作品名[hReEnNzKaOi](「遍」の「扁」の上横棒を草冠に、「在」の中の土の十を子に変えた存在しない文字の「画像」がタイトル)
元ネタ秘封倶楽部(東方Project)
公開日20181111
公開場所なし
頒布イベント科学世紀のカフェテラス8
掲載誌夢現[l[忄実]r]験-Drealexperiments-

§

辺りを埋め尽くしていた葉擦れの音が突然消えたのなら、それはあなたが傍にいる証だ。まるで無作為に天に伸ばされた木々の腕、その上と下に空間的な断絶なんてあるはずは無い、木の枝をひょいと除ければ区切りのない世界が広がって、ここはただの一つの空間なのだと思い知るのだから。それでも、この葉擦れがかそけき響きに薄らいだなら、それはあなたが傍にいる証なのだ。枝の下には見えないのに上にだけあなたは現れる、枝と枝との接続のない輪郭に区切られたその閉路の中にも、あなたは、いる。

一人過ごす夜の部屋で流れる空気を感じたのなら、それはあなたが傍にいる証拠だ。まるで意識無く散らかされた部屋の置物、時計、本棚と椅子、机に食器と私の体、その融接のない個別の存在の右と左に世界の境目なんてあるはずは無い、ちょっと椅子を除けてみれば、私が歩いてみてみれば、境界のない世界が広がって、ここはただ一つの世界なのだと思い知るのだから。時計の長針と短針と文字盤の間の三角が妙に気になってしまうのなら、それはあなたが傍にいる証なのだ。電気コードの右には見えないのに、左にだけあなたは現れる、椅子と机の非接触な線に区切られた閉路の中にも、あなたは、いる。

漆黒に沈む筈の夜空にさんざめいて揺れる星々が、急に静かに私を見つめてきたのなら、それはあなたが傍にいる証だ。まるで宇宙の神秘は人間のことなど気にも留めていない様に見えるのに、星が私に語りかけることなど無い、数式を解いて測ればそこには絶望的な空間的距離があり、それがただ一つの時空であることへの失望と落胆を思い知るのだから。それでも、星と星の間を充溢する漆黒の永遠が、不意に身近に感じられたのならば、それはあなたが傍にいる証なのだ。月と太陽の間に時間は無いのに、星の間の時間にだけあなたは現れる、忘れ去られた星座を結ぶ閉路の中にも、あなたは、いる。

私はどこにでもいる、あなたに置き去りにされた私には、そうしてあなたが手を伸ばしてくれるのを、待ち続けるしか出来ないから。

§

嫌いなことは、確かですけどね

そう捨て台詞を吐いて、私はそれ以上追求できない教師を尻目にその場所を出た。

あれは、空虚だ。中身を持たない血と肉のぬいぐるみのようなモノだ、そうしているのは、認識し客体化して対象を現存在に固定している周囲の方だが。

あれも可哀想な存在だ、本来中身を持っている本質である筈なのに、周囲は表象しか汲み取らない。可愛い可愛いと愛でられるその皮の内側に押し込められて、彼等は望みもしない存在に作り上げられてしまっているのだから。

それを憐れんで救ってあげた、などとは思わない、停止がその救いになるなんて破局的な思想を私は持っているわけではないから。彼等を救う力も無いし、そもそも私はそれが嫌いだ。

無条件に、実態を伴わずに、万人に愛される誤謬の塊。私はそれが単に羨ましくて憎たらしくて、空虚な記号具合を目の前に晒して確認したかっただけだ。

そんな行動がずっと続いていた。だが。

何故、ばれた?

何度も、無人であることを私は確かめた。慣れがあっただろうか。油断と手落ちがあったか。

無い、断じて。抜かりはなかった、いつもそうしているように、確実に痕跡も

教師の気配が背後遠くに消えた後も、焦るような足取りを取り消せない。

何度も自分の行動を振り返って、人目も、監視カメラも確認したことを思い出す。無かった、どこにも。電波も飛んでいなかったし、物理的な配線は勿論無かった。工事も無かったし、人の目なんて尚更無かった。あの場所は第一人が来ないことを、私は何年も前から確かめている。今更、バレるなんてことが信じられなかった。

しばらく、止めた方がいいだろう。場所も変えなければならない。後は、どこにカメラがあったのか、後学のために確かめておくことも必要だ。

カメラなんて……いったい、どこに

隠しカメラは確かに、隠匿を期待するならば幾らでも見付からないように出来るだろう。だが、あんな場所だ、最初から疑いが無ければ仕掛けるはずが無い。ならば、その手前から既に察されていたと言うことか。

親指の爪がぎざぎざ囓れなくなって、人差し指、中指と進んでいよいよ薬指にさしかかる。焦りと不安が、胸の真ん中辺りを蝕んでくる。

そんなはずない。あんなの大人達の脅し文句だ

だが。だが私は一つだけ、人目もカメラも仲介せずに、私を盗撮するモノがあるのを知っている。それを否定するために続けていたようなものだのに、皮肉にもその存在を証明する結果になったのかも知れない。焦りと恐怖、不安と怒りは、それに向かったものであった。

どこにいても、いつであっても、私のことを監視し続ける存在。何者かは知らないが、私はそれから逃れることが出来ないのだという。そんなはずは無い、とこれを続けてきた。遍在する監視眼、そんなモノ、認められない。導かれた結果、これは必然だったのか?

かみさまなんて、いるわけが、ない

§

ちかちかと原色な光が踊り、喧しいほどの音量が黒い箱の内圧を上げ続けている。一発ずつ腹に響くような低音のキックは心臓の鼓動とペースが似ていて否応無く意識を持って行かれる、胴鳴りが酷くて頭の天辺まで揺さぶられるみたい。耳から入り口や鼻から抜ける低く振動するベースが、キックに促され短いフレーズを繰り返す、その上から被さるように金属質な残響が一期一会の旋律を描き続けていた。

押し流されそうな音と光の奔流に、それでも毅然と居座り続ける、質感さえ感じる暗さ。そのぬらつく闇を押し退けるように私の隣に来た人間が、何を言うでもないが何かを求めるようにそこに座った。

黒いジャケットにスカート、ビジネスライクに見えないのは、そのデザインがどこか丸みを帯びた色合い、線形、それに着ている人間が小柄なせいもあるかもしれない。いわゆるブレザー高校生。ジャケットの方は袖が通されておらず肩に引っかけて羽織っているだけだ。そのブラウスは本来されているのだろうネクタイが外され第一釦迄が開いていた。だがそもそもこんな店に高校生がいることの方が風紀的に拙いのだ、着こなしの一つ一つにラフがあることなど取るに足らないことだろう。

それに、もしその出で立ちに言及するのなら、ブレザーを着ていることよりもその帽子の方に目が行くのが正しい感覚だろう。

ブレザー学生服には全くミスマッチな黒い帽子はシルエットこそカンカン帽のそれだが、どうやら素材は光沢を持った肌理の細かい生地で出来ているらしい、まるで出来損ないで背の縮んだシルクハット。それが出来損ないのようなシルエットでなく優美な姿をしていようと、正しくカンカン帽の藁様な姿をしていようと、どちらにしてもブレザーの姿には不似合いだ。

私が視線をくれると、隣の人影はこの音と暗の洪水の中にあっても凜と聞こえる澄んだ声で私に言葉を投げかけてきた。

この帽子が気になる?

私の視線に気付いた彼女が広い鍔の下から覗くように向けてきたのは、気怠げに、だが切れ長に、整ったブラウンの瞳。水平なシャギーに切り揃えられたショートヘアもまた明赤茶色をしている。丸みの強いフェイスラインは、彼女がこの場に幾許か不相応な幼さを描き出していた。

「これは帽子じゃない、星々の視線から私を守るためのシールド。『深淵を覗く時、深淵もまた此方を覗いているのだ』。誰の言葉だったっけ。って、元々帽子って日除けか、同じだったね。じゃあこれも帽子だ」

急に話しかけてきた。そうか、彼女が。

背は私よりも小さいのにまるで私を見下ろすような、私の何倍もあるような存在感。肩に羽織った黒いジャケットはまるでマントのように見え、そう認識すれば帽子はまるで魔法使いのそれにも見える。

彼女は私よりも低い位置から私を見下す様に言葉を続けた。

情報世界ワイヤードは全てを受け入れるわ

それは、残酷なことね

その言葉に何の意味があるのかは知らない、それは彼女が指定してきた合言葉であって、私はそれに従っただけだ。何が残酷なのか、言わされただけで私はそんなことをつゆも思っていない、むしろ素敵なことだとさえ思っているのだから。

情報世界ワイヤードには神がいるという。私はその名前を知らない。だけど、情報世界ワイヤードが世界を席巻することに、素直に賛同するものだ、だって何もかもが便利になって、情報は伝達にコストを要さない。集合知は個別の「人間」を遙かに凌駕して、「にんげん」へ進化できるのだから。

それでも、そこにいるという神の名前を、私は知らない。

ようこそ、こんな場所まで、はるばる

初めまして、ではないけれど。本当に会ってもらえるなんて思ってなかったわ

私が握手をするつもりで手を伸ばすと、彼女は想像に反してあっさりとその手を取って握手に応じた。こういうときに突っぱねる、というのはフィクションではありがちだろうか、どこかでそれを想像していた私も、随分そういうお粗末なものに毒されてしまっていると思う。握手を交わした彼女の手は、少し冷たいようだったが人間の範疇に収まるものだった。

私は普段サイベリア・チェーンこうした店に来るようなことはない、正直に言えば、こういうアンダーグラウンドな匂いのする空間は苦手だった。そうは言っても実際にここに入り浸っている人達にしてみればここは地下ではなく地表なのだろうから、裏だのアングラだのと卑下するのは適切な扱いではないかも知れない。何より、ここではまだNaviが機能している、情報世界ワイヤードにも接続できるし、目に映るものの中でNaviによる情報補完が効かないものは存在していないらしい、つまり、決して陽光も電波も届かぬような場所ではないと言うことだ。

何で?私はここにいるわ。あなたは私が、まるで非実在の情報塊だと思っていたの?

いや、そういうわけでは。ただ、あなたは有名人だし

有名人こそ、誰とでも、何時でも、会うものじゃない。おかしなことを言うのね。私はあなたと、毎日会っているわよ

え?

その眼鏡、Navi?

デバイス、とは今私が眼鏡として身につけている情報端末Naviを指しているのだろう。これを使えば常に情報世界ワイヤード内の情報を現実世界に仮想的に構築してミクスチャ出来る。私自身が今見ているものを知らなくとも、情報世界ワイヤードにその情報があればその情報は直ぐに手元に届き、知ることが出来る。調べるという行為は今日こんにち、見る、あるいは聞くという行為とほとんど境界をなくしている。

眼鏡Naviを外して、私を見てみたら?

彼女がそれを外して自分を見ろ、と言うことの意図を探ってしまう。情報世界ワイヤードの手助け無しに姿を認知したとき、彼女の姿はそうでないときと、何かが違っていると言うことだろうか。

何故?

何故って、別に?それとも、

彼女は挑発するように私のNaviを剥ぎ取ろうとする。そうすると、彼女の姿は、どうなるというのだ?まさか、情報世界ワイヤードの補完無しには姿が解像されない……純粋な有機的情報塊ニューロマンシーだとでも言うのだろうか。

ブレザーって好きなんだよね、セーラーも悪くないけどさ。こんな着方してたら、風情も何もないけどね。似合ってる?

私がNaviを外すか外さないかなどどうでもいいのだろう、彼女はさっさと話を進め始めた。脈絡が無さ過ぎて一瞬何のことか分からなかったが、彼女の服装のことだ。

女子高生だったなんて。それコスプレじゃないよね?

どうかな

そう言いながら、彼女は懐から猫を象った可愛らしいポーチを取り出した。手慣れた様子でファスナを開いて内容物を取り出す。ポケットティッシュを何分の一にも小さくしたような形状の、薄いシートを畳んで折り重ねた束、それと、細かく刻まれた綿状の何か。彼女はシートを引き出して綿状のそれを紙縒りにしてシートに巻く。シートは紙というよりはパラフィンのフィルムの様な質感を見せており、それを小さなラッパ型に巻き細まった方に口を付けた彼女は広がった綿の先端にライターで火を付けた。胸が上がって息を吸い込んでいるのが分かる、ライターの火は白い綿上のものに吸い込まれて着火が完了した。炎が上がるようなことはない、ちりちりと繊維に沿って赤い線が走るようにして熾をなすだけだ、加熱部分から特有の香りが揺れ、漂い始める。

繊維に沿って複雑に絡み合う赤い燃焼部分の走行は、まるで脳内ニューロンを駆けめぐる電気信号の伝播の様にも見えた。

女子高生はタバコなんて吸わないっけ?

このタバコはどうやら着香がされているようだ、ふう、と彼女が吐き出す紫煙には、ボディ感のある甘さが付きまとう。

昔は特定の植物の葉を乾燥させたものをタバコと言っていたらしいが、今はこうした人工香葉ケミに置き換わっている。値段は高価で、高校生が普段使い出来るようなものではないし、そもそも高校生には禁止されている。

あんたも

結構。職業上そういうのはダメなものでね

なに?あんた、警察チューリング

彼女に警戒の色が現れた。

違うわ、私は医者なの、これでも千葉でやって行けてる程度の。医者は喫煙が禁じられてるんでね

ふうん、前言撤回。つまんないね、あんた。千葉の医者で非喫煙者なんて、逆に高が知れるね、ま、止めないだけマシか

大仰な様子で溜息を吐いてみせる彼女に、私は、だったら、と切り返した。

ひとつ、つくって頂戴

え?

タバコ。そうまで言われてはね

あらら、まるで私が吸わせたみたいだ。お医者の先生に喫煙させるなんて、まるで恋人にドラッグやらせてるみたいでどきどきするね

だが彼女は改めて私に確認することも無く手慣れた様子で巻紙にシャグを包んであっという間に円筒状のタバコを作り上げた。最後にペーパーの端に舌を伸ばして濡らし接着するその仕草が、若い見た目に不相応に大人びていて妖艶だ。なるほどこうした背伸びた様子は、ネットワーク技術の高さを他として、その蓮っ葉だがどこか見透かしたような物言いや、小柄な外見にそぐわない気配を巻き込んで、カリスマにも似た空気を作り出している。

出来上がった手巻きタバコを差し出しながら、彼女は妖しく笑って言う。

混ぜものナシ。意味、分かるよね?

正直よく分からない、意味は知っている、だが二つの意味があって判然としない。「純粋に市販のタバコだ」あるいは「公称以外の成分は混ぜていないドラッグ」。どちらの意味だ?

サイベリアは、こんなアングラな雰囲気を持ってはいるが、その実極めて健全な店だ。確かにヤクの売人も来ることはあるし、こうして情報世界ワイヤードの姫神が突然降臨したりもする。だが、実際にドラッグパーティが開かれるような場所では無いし、売人も実際に取引をするときにはこの店を出てもっと足の付かない場所でする。人攫いは起こらないし、流血を伴うような喧嘩もほとんど起こらない。ここは、健全な店だ。千葉市の路地裏に比べれば、だが。

彼女の差し出したタバコを受け取り、それを抓むと直ぐに差し出してきた火を、受けた。タバコなんて何年ぶりだろう、確かに彼女の言う通りだ、職業柄客には喫煙者が多いし確かに医者の正式な国家ライセンスを持ってはいるが千葉でライセンス持ちの医者であることを公言しようものなら逆に嗤われる、そんな1bitが何になるのだと、だから別に医者だから吸わないと言うことに妥当性はあっても、必要性などつゆも感じていないのも事実だった。

って、甘っ

きゃははっ!どう?気に入った?

とんでもなく甘い味の、これは子供向けのタバコを模したただの甘い空気菓子だった。ヤニの口当たりなどこれっぽちも無い、スカスカで、でもべったりと甘い甘味料の味が、口を躍り、肺を満たして抜けていく。

よかったね、お医者のライセンスに傷は付かないよ。ふうん、一回更新忘れがあるんだ、気をつけないとね?

いつの間に、私の個人情報を掠め取ったのだろう、元々知っていたとか、こうして会う約束をするときに不正アクセスして取得済みだったという訳では無い、まさに今獲れなのだという口調で、私自身も覚えていないライセンスコードをつらつらと口にしていた。そんなもの、くれてやるわ。

本名で来るなんて、自信あるんだな

それなりにはね。それに、あなたへの敬意でもある

敬意、ねえ

敬意という言葉に偽りは無い、彼女は、情報世界ワイヤードの姫を他称される、希有なハンドルの持ち主だ、今私の個人情報を抜き取った技術も、その証左となるだろうか。私は正しく彼女に会いに来たのだ、普段足を踏み入れないこんな店に、本名までひっさげて。まあ、他の情報は片っ端から偽装だが、医者のライセンスも含めて。

ええ。会えて嬉しいわ、タバコまで貰ってしまって

私の断片なんかに会えて、そんなに嬉しいもんかね?私は、あなたと毎日会ってるつもりだったけど

世界には宇佐見蓮子を名乗る情報世界ワイヤード上の人格が無数に存在している。元は一人だけだった情報世界ワイヤード上のカリスマ的人物だが、ミーム化して一人歩きし、称号の様に名乗られる軽薄な名前になっている。だが、どこかに本物がいるのだと、私は信じていた。だからこそこうしてハンドル「RENKO」を名乗る人物を虱潰しに探しては、リアルで面会して話を聞いて回っている。本物の蓮子を探して。本当にいるのかも分からない、いたとしてもまだ生きているのかも分からない。それでもだ。

私は今までに何十人もの偽蓮子と会ってきた。今日もそれにプラス1されるだけなのだろうか。それとも、本物に、今日こそ会えるだろうか?

会う、と、見る、は違うわよ。私があなたを認識していなければ、会ったとは言わない

多くの「RENKO」は話の整合性があっていないし、語られるエピソードが荒唐無稽過ぎる。彼女等の話は、まるで自分は蓮子ではないと自ら言っているようなモノだった。

宇佐見蓮子を名乗る人間に顕著な特徴は、自身に対する底の浅い客観視であることも承知している。そのお遊び要素として、自分を過去に殺してみるだとか、未来に誕生させるという統合失調じみた発言をするのもその一環だ、それは彼女「達」の一つの作法なのかも知れない。

宇佐見蓮子という人間は、その名がミームと化す巨大な存在だが、同時に、元々はただの一人の人間に変わりは無い。そんなファンタジーで奇抜な人物だったとは、私は考えていない。

私は「本物」の蓮子に会ってどうするつもりなのか。そも何故会いたいと思うようになったのか。

主体性をどこに配置するかだけの話、大した問題じゃ無い

それを問題視しないのはあなただけよ、情報世界ワイヤードのお姫様

§

ヴ……ヴ……

送電線は濃藍の沈殿する空を雑把に切り分けている。これは送電線に風が切られる音だろうか、風が送電線を振るう音かもしれない、どちらが主体かなどどうでもいいことだが。低く唸るようなざらついた音が続いている、響くと言うほどではないが聞こえてくる、それは鳴っているというよりは『ある』と表した方がまだ近かった。

今まで一度も途絶えたことがない様に思えた、少なくとも記憶を辿る限り、その音が聞こえない時間を思い出せない。私に意識が無い間、寝ているとき、あるいは何らかの拍子に喪神していた時間は、もしかしたらその音は已んでいたのかも知れないが、だとするならこの音は私の生命か意識、もっと別な形で示される「私」の稼働を示す音みたいなものなのかも知れない。

ヴ……

なだらかなうねりを持ってその音は絶え間なく聞こえてくる。まるで耳の中で直接鳴っているように、物理的な遮断は効果を持たない。でも耳というか、自分の中から発せられるものではないことは、自分の体がよく知っていた。低い低い周波数のそれは私全体を揺らす様にいつも私を捕まえているからだ。

送電線は地鳴りのような吐息を吹き付けてくる、乾きかけの絵の具のようにねとねとと糸を引きべた付く青を滲ませた澱の空が、低音を吐き続ける黒い線で区切られて色を分けている。バラバラの方向にグラデーションして所々で、まるで染色された感染細胞の映像みたいに繊維状の滲みを見せながら濃度勾配のめちゃくちゃな色を転がす空が、天辺に星を貼り付けていた。今は昼な筈なのに。

ヴ……ヴ……

じい、とこうしてアスファルトを眺めていると、空の色が垂れて滲んで境界は融解しているように思えた。徹底した定点観測に於いては、人の動きは掻き消える、存在そのものが誤差に落とし込まれるのだ。そこには誰もいなくなる、溶けて消える、誤差を丸めた事実は微細な些末の描写とは異なるが、それでも問題がない。つまりいてもいなくても事実に差はないということだ。そこにあったことと、そこにあることの境界が、至極希薄になって意味を失う。

地を這う周波数がここと地球の裏をつないでいる。朝と夜は連結して、空と地、生と死、過去と未来は二極では無くなり一極の塊になる。境界はない、本来。超極低周波の文法プロトコルは遍在し、遮られず、透明で、それを手に取り暗号するにはいかなるデバイスも不要だ、勿論復号も。

うるさいなあ

耳を塞いでも地べたを這って脳に流れ込んでくる低周波の声。地べたを這いずり回る蛇のように満たし、だがそれは空から降ってくるものだった。これは会話だったのだ。その文法プロトコルは此と彼を結ぶ声の規約を横から掠め入るかのように利用するものだ。絶対的だし、所詮人間が便乗したところで此と彼の気の遠くなるような長周期の会話キャッチボールから見れば、修復可能で軽微なノイズに過ぎないのだ、徹底した定点観測では動く人間は存在しないのと同じになるように。

それは確かに有用なネットワーキングかも知れないが、それを使うにはどうにも嫌な気分がした。大きなものに飲み込まれて、自分を失い、ただの液体になった自分が同じように液体になった隣人と混ざり合って、嗚呼幸せだ、幸せだ、とアヒルのように喚き散らして吐き出し続ける、ただの無意識の塊になってしまう様な気がして。

だから私は耳を塞いだ、ずっとそうしてきた。自分で自分の身の回りのことを多少なりとも自由にできるようになってからは帽子を被ってシールドすることにしたが、これは良い考えだったらしい、効果があって大変静かな世界が訪れたが、それでもアスファルトに乱反射する低周波を完全に防ぐことは出来なかった。この鍔広の帽子が手放せなくなったのは、つまりこういう訳だった。

ああ、うるさい!私を置いていったくせに!

地面を蹴ってみても、送電線が矩形に区切る空の色は絵の具水溶液の不均一混濁だし、鳴り響く低周波は福音のラッパには到底聞こえない。

物心付いたときから、どこにでもある真っ黒く塗り潰された空間に、目玉が生えてこちらを見ていることに気付いていた。監視されている。すっかり暗い物陰、まだ0,0,0に至らない厳密を期すれば灰色に過ぎない空間にも、その目はすぐに現れるようになっていた。ついこの間までは、0,0,0の真っ黒でなければ入り込むことが出来なかった様に思える、「目」は、進化あるいは深刻化しているようだった。

物心付いたときからずっとそうだった、帽子シールドを被って楽になる方法を自らの裁量で実践できるようになるまでずっとだ、それはもう隣人のようなものだが、未だにこれと友人になれる気はしなかった。

この目は至る所に存在する、明度が閾値を下回る空間ならば、並行して同時に幾らでも現れるのらしいし閾値は今も漸減している、私が歳を取る毎に。だから夜電灯を消して寝るのは自殺行為に思えた。いつも私を取り囲むように、あらゆる「黒い」空間の中から私を監視し続ける目。そもそも色が黒いもの、物陰、隙間、穴、溝、闇、夜、私が見ていないあらゆる空間の底。それら目同士はこの低周波プロトコルできっと、連絡を取り合っているのだろう。その通信プロトコルを不正に流用して、目玉同士は通じ、私を監視している。

いつでも、どこからでも。

§

大人が言う言葉というのは、時に子供の想像力を無用に刺激してしまうのだ。

悪いことをするとね、誰かがちゃんと見ているんだ。お母さんやお父さん、それから、神様だ

かみさま……?

そうだ。隠れて悪いことをしても、神様はちゃんと見ていて、きっと自分に返ってきてしまうよ。いいことも同じ、人を助けたり、親切にしたり、良いことをしても神様は見てる。きっと自分にいいことが返ってくるよ

かみさまはいつもみてるの?わたしのことを?

優しく頷いた両親だった、それは悪いことをせず善いことをすれば人生が豊かなものになるという紛れもなく優しい道徳だったのだろう。でも、私には悪行も善行も関係なかった。どちらの行動も誰かに見られているという言葉に、身の毛もよだつほどの恐怖を感じてしまっていたから。

夜外を歩いてもオバケなんて全然怖くなかった。昔話を聞いても、鬼も妖怪もオバケも幽霊も全然怖くなかった。でも、

かみ……さま……

その存在だけはどうしようもなく恐ろしく思えた。私を見てる。いつでも、どこでも、私のことを、ずっと、ずっと見ている。いつでも、どこにいても。ずっと、ずっとだ。

神様は見ている。神様は私を見ている。神様はいつでも私を見ている。神様はどこにいても私を見ている。神様は全てを見ている。神様は、見ている。見ている。見ている。見られている。ずっと『見られている』。

どうしようもなく恐ろしくて、私は震えながら泣き叫んでしまった。恐ろしい、この世界の至る所に私を見張る目があって、四六時中私を監視している。どんな秘密も隠しおおせず、全ては見通されている。行動も、思考も、何もかもが、筒抜けで、それは誰かにきっと漏れているのだ、今回みたいに。

恐ろしくって、涙が、震えが、止まらない。空の上から、何か巨大な目玉がずっと私を追いかけ続けている。あの暗い夜空の向こうから。

でも勘違いな大人達は、私が悔い改めて泣いているのだと思っているらしかった。

§

その転校生は、前触れもなく現れた。灰色に皹割れて、統一理論の繰り糸一つにぶら下がるソリッドでグロテスクな日々を、その目は砕いた。私の全てを見透かすような青い目。

この目、だ。

マエリベリー・ハーンです。よろしく

美しい、でも、美しすぎて人形然とした佇まいは氷か硝子か、あるいは砂漠か屍肉のどれかにさえ、彼女の姿は、見えた。肌は透いて白く、ブロンドは日を返して宝石のよう。一挙手一投足に迷いが無くて、まるで障害物の有無も含めて予めプログラムされた様で、上から下に流れる水のような必然性を持っている。声は発せられ届くと言うよりその範囲に突然に湧出する現象。彼女を包み込むありとあらゆる記号は彼女のありとあらゆる要素を存在させるためにこそ意味を生んでいるいるようにさえ見えた。

それでも私が見た彼女の第一義は、それらいずれでも無い。

あの、目……

舶来の高級品のような彼女の目が、不意に私を見た。彼女の目を見つめてしまっていた私の視線と彼女の視線が、絡み合う。直接手で触れて指同士を絡めているような体温さえ感じる艶めかしい感触が、その視線同士の交差の中に爆ぜた。

ぞくっ、と背筋を強烈な電流が走り抜け、跳ねるように反らせてしまう。そしてすぐに、収縮。彼女のサファイアブルーの目が私の視神経を通って脳髄を焼いた。ぞくぞく体中を走り回る電流、呼吸が細かく浅く、そして熱く火照って行く。体の芯が蝋のように溶けて、中心から漏れていくのが分かる。熱に浮かされた様に体の奥で生まれて心臓で鞴された熱い息を撒きながら、でもその転校生の氷の様な視線から、自分の視線を引剥がすことが出来なかった。

はっはっはっ

教師に指し示された席に向かって彼女が一歩、一歩と足を進める。その間も彼女の目は私の目をピンで貫いて留めるみたいに、見ている。彼女が一歩足を進める度に私の奥から滲む熱は増し、それを焦らすように彼女の歩みは遅々としている。目を離すことが出来ない、突然生まれた熱暴走を抑えることが出来ない。一歩、一歩と私の席とは違う方にある席へ向かうのに、その一歩は私を追い詰めて行く。

机に突っ伏す寸前だ、両手はお腹の下にあって寸前で我慢しているけれど、いつ瓦解するかも分からない。膝同士がこんなに遠いと思ったことは初めてだった。

彼女はマリーゴールドの様な髪を流し、ふわりと席に着く。

どくん

彼女が椅子に腰を下ろす瞬間、視線はようやく私を解放した。ぶつりと何かが引きちぎられる様な感覚が降り注いで、いよいよ私は淵に突き落とされた。

ぞくぞく電流の残滓が残る体を無理矢理引っ張り上げて、立ち上がる。

先生、具合が悪いんで、保健室に

立ち上がった瞬間、ぐにゃり、と周囲の光景が歪んでフェードアウトする様に視界と意識が遠のいた。

彼女の目が、また私を見ていた。高い、高い場所から、遙か高い場所から、宙の上から、「私」を。

そして口元だけで、声を出さずに言ったのだ。

ねえ、今夜、現葬を観に行きましょう?

§

彼女は今、私の隣にいる。なんだか色々あったけれど割愛。彼女の転入から一週間、私と彼女は全く至って普通の友達になっていた。そんで、こんな夜遊びに誘われたってわけ。

私が倒れながら彼女の口元に見た「観に行きましょう」の言葉は、こんな夜の裏山ハイキングのことだったのだろうか、どうにもそうは思えないけど。

だって、私が転校してきた日に、目の前で急に倒れちゃうんだもの、吃驚するわよ

え、うん、ごめん

謝ることじゃないけどさ、彼女は笑う。教室に入って自己紹介をしていたときの、強烈なイメージはそれから一切感じられたことはない。もしアレが気のせいでも体調不良でもなかったなら、恐ろしくて友達になんかなってないだろうし、こんなところまで二人でのこのこやってなど来なかっただろう。

帽子をずらし星を掠め見れば、今は20時31分と告げられた。

ここは学校の防風林の中で、少し高く丘になった場所だ。帯状の防風林は川のように平地から丘の上をなぞって、更にその向こうの低地まで伸びている。学校はそれに擁されるように佇み、その向こうには私が住んでいる街の光が見えた。夜空には星が喧しいくらいに揺れている。

ほらほら、あの夜景、こっちに引っ越してきて見つけたのよ。蓮子は知っていた?

え、うん。この場所は知ってた

いつの間にかもう、愛称で呼び合う仲だ。でも。

マエリベリー・ハーン……メリーが指さした先は市街地で、確かにこうして見れば結構な夜景でもある。だが私は気が気じゃなかった。

私がこの裏山で頻繁にしていることを、彼女に悟られるんじゃ無いかと。勿論こんな風にちょっと足を踏み入れたからって気付かれるようなことは無いだろうけれど、メリーのこの真っ青に綺麗すぎて、どこか人間らしさの欠落した目なら、目に映るモノ以外のモノまで、見通してしまうんじゃないか。

かみさまは……見ているから……

幼い頃に刷り込まれた恐怖の体験は、誰に言っても理解されず笑い飛ばされるだけの話のネタだ。でも、今でも恐ろしい。何をしても見透かされるなんて、私の存在はどこに組み立てればいいのだ。そう思ってしまう。だからこんな場所で、きっと誰も見ていないからと、ここでやったことが誰にも見つからずに済めば、あんな目玉なんて、視線なんて、監視なんて、ただの思い込みだと思えるはずだから。

ねえねえ、みて、あれ!すごい!

メリーが指を指す方には、第二京都タワーが燦然とライトアップされている。

そしてその背後に。

その背後の広がる星空は、今まで見知ったモノと全く異なっていた。

星座が、違う

星座?そっか蓮子ってそういうの詳しいのね

第二京都タワーの背景に広がるのは、星空では無かった。

紫色と濃紺の滲みがじくじくと蠢き周り、その表面を光点が拍動している。さっきまで見えていた月はない、恐らくあの滲みの膜の中に捕らわれたのだ。それは天球の半分を覆い尽くす巨大な柔らかい輪郭を持つ円形だった。

輪郭は細胞膜のようにぶよぶよと蠢いて、内側の紫と紺色、時折混じるオレンジ色の空間滲みが、虫籠の中で何かから逃げ回る蟲のように不規則に蠢いていた。それに引き摺られる様に、星に擬態した光の粒が震えている。滲みの移動に引っ張られてそれぞれが心臓のように脈打って光を明滅させている。

……あんな不気味な空が、あって堪るものか!

うっ……

余りにも気持ちが悪くて、吐き気に襲われた。

えっ、蓮子、ちょっとどうしたの!?

メリーの方から遠ざかるようにして、私は胃の中にあるものを戻してしまう。だが、事態はそれで収まらなかった。吐き気に苛まれながらも、なんとか平常を取り戻そうとしながら視界に入ってきたさっきの不気味な空模様、それが。

あ……あ……っ!

巨大で不気味な細胞のようだった空の一角が、急にその中央で裂け始めた。横一線に引かれた線から、滲みを蠢かせる空間がぱっくりと割れる。その裂け目が広がる度に絹が裂ける音と歯茎の奥の組織が千切れる様な音が混じって響き、裂け目の端からは暗濃臙脂のどろついた何かが滲出している。裂け目の中は全く何もない、何も見えない一切の光のない暗い暗い闇が満たされていて、その奥で。

目、玉?

ぎょろ、と目玉のようなものが、往来している。

あ、あ、あ、あああ、ああ

れ、蓮子!?ちょっと蓮子、どうしたの?しっかりして!

怖い、怖い、何だあれ、なんだあの目玉!メリーは、メリーはあれを私に見せようとして、ここに誘ったの?

あれは、あの目玉は、そうだ、あの目玉は!

かみさま……!

私を見ている、ずっと見ている、私を監視している目玉は、空の上の、あの膜の向こうにずっといたんだ。あのぶよぶよした空の膜、裂け目はきっと世界の亀裂で、その向こうから私をずっと監視しているあの目は、神様。恐ろしい。私を見つめ続ける、にらみ続けて監視し続ける、世界に遍在するあの目玉こそ神様……。

あああああああああああ!!ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい!!私は、私、わたっ……!

蓮子、蓮子、大丈夫だから。落ち着いて蓮子

メリーは、錯乱する私をぎゅうと抱きしめて、落ち着くように頭を撫でてくれる。背中をさすって、うん、うん、大丈夫だから、何もないから、と宥めてくれる。

怖くて空を見上げることが出来ない。まだ、あの目玉が私を見下ろしているのではないか、そう思うと頭を抱えたてしゃがみ込んだまま動けなくなる。メリーはその間もずっと私の肩を抱いていてくれて、涙を拭いてくれて、頭を撫でてくれて。

だいじょうぶ、だいじょうぶ。何もこわくないよ

落ち着くまで、彼女は傍でそうしてくれていた。

私を強く抱いたまま、メリーは私の代わりに空を見てくれている。あの不気味な空に向かって視線を投げている。私にはそれと同じものを見る勇気は無い、彼女の目は一体、何を見ているだろうか。あの世界の裂け目とその奥にいる何か巨大なものを、彼女の目は目の当たりにして何を思っているのだろう。

メリー、そうか、あなたは

あれを、私に見せたメリー。メリーの印象的な青い目は、そうか、あの目のかけらなんだ。メリーは、世界の裂け目を知り、それを見る目を持っていて、見渡す目玉の、神様の、使者なんだ。

メリー

うん?

ありがとう

どういたしまして。

そう言いながら彼女は、私の頬を撫でてくれた。

§

ちがいます

それは非道く年代物のブラウン管のモニターだった。どうしてこんなただの平面図を映し出すために奥行きが必要で、表面がこんな風に歪んで丸いのか、分からない。丸みを帯びた分、表面にはその縁の樹脂枠との間に不自然な凹凸を生じていて、そこには自分の知らない時間を鬱積した埃が重なっている。

平面の映像を映し出すのにこんな風なまるい形をしているなんて、きっと映し出される映像も、歪んでいるに違いない。

そうか?これ、宇佐見だろう

流されている映像を視界に捉え続けているとき、なんだか、妙な感じがした。テレビの中では、私とそっくりの誰かが、何か小脇に抱える程度の大きめの袋を地面に放った。

私そっくりの人物はその袋を、踏んづけている。何度か足で踏んづけたり蹴ったりして、その内にその辺にある大きめの岩を重たそうに抱えて、袋の上に放り付けた。

この映像、何なんですか?

先週の木曜日に校舎裏の防風林の中で、防犯カメラに映った映像だよ。不審な行動をしている生徒がいると警備会社から連絡があってね

私が白々しく聞くものだから教師も、何か意味があるのじゃ無いかという風に、不審そうに答える。

先週の木曜日、宇佐見は何してた?

家にいましたけど

映像の中の、私そっくりの誰かは、その袋に石をぶつけ、棒で叩き付け足で踏み、動きが鈍ったところで中身を取り出した。出てきたのは猫だ。

猫。イエネコ。約13万年前にリビアヤマネコの亜種から生じた。元は鼠害防止目的で家畜化されたものだが、現代では主に愛玩目的で飼育される。家畜化された時代は犬よりも新しいが、それに従って犬に遅れ最近急激に人気が高まり、ほぼ無条件に愛される愛玩のイコンとなっている。猫に向かう愛は絶対で、猫を愛さない者はいない。猫と言うだけで、必ず可愛い存在として愛情を注がれる。誰もその中身を問うことは無い、猫では無く「猫という記号」を盲愛している。そこに実体は無い、猫の実体は触れるし存在するというのに、それを全く見ること無く問うこと無く考えること無く、記号に貶めて、愛している。

……気持ち悪い。

誰かと一緒にいたか?

教師が私のアリバイを確認しようとしてくる。

いません。家にいましたが、母も仕事に出ていて誰もいませんでしたから

取り憑く島も無い様子の先生。

映像の中では、私そっくりの人物が、袋の中から出した、既に石や棒での殴打でほとんど動かなくなった猫の首に手を宛がっている。首を絞めとどめを刺そうとしているらしい。

映像の中の私にそっくりな人物は、やがて動かなくなった猫を無造作に地面に捨てた。しばらくその場に立ち、猫の死体を見下ろしたまま、じつ、と動かない。何分か微動だにしないまま猫の死体が正しく死体になったことを確認した後、袋だけを拾って画角の外へ歩いて行った。

映像はそこで途切れ、画面にはざらざらとした白と黒、時たま光の三原色をちらしたモザイクのようなノイズ画像に切り替わる。所謂「砂嵐」と言う奴。

これは、宇佐見じゃないのか

ちがいます

私が頑として強く否定すると、先生達は口籠もった。ほうらみろ、私がやったという確証は無いのだ。この映像は、誰かの捏ち上げに違いなかった。

映像に驚いたことは確かだが、私は直ぐにそれを否定することが出来た。強い意志を持って、何者かの罠を出し抜いて、強く自分を保つことに成功した。

猫が嫌いなことは、確かですけどね

古くさいブラウン管モニタに映りっぱなしの砂嵐、その幽かな向こうに、私を見ている誰かの顔が映ったような気がした。

§

私の空には常に目玉がある。地面を這う低周波を反射して反響している、黒い薄膜に包まれた球面と、ぬらついた白目、それに裂けてぱっくり割れたような忌々しい形の瞳。それが、見上げる限り一面に空を占めている。私を見下ろし監視するために。太陽と雲、音、それに巨大な目玉は常に空に貼り付いている。見られている。ずっと、どこからでも。

地面に滲み広がる影は、相変わらずに赤紫と濃藍の滲み模様に寄生されていて、影の暗い場所はそれら不定形生物の住処になっている、その中で白痴に蠢く滲みと星のような光の粒。綺麗なものでは無い、穢れた何者かだ。闇の中からこちら側にはみ出そうとして、その機会を窺っているに違いない。

それは目玉を持っている、遠隔の目。私を監視するのは、そのためなのだろう。

無駄よ

空ばかりではない、部屋に入ってカーテンを閉め切っても、幽かな隙間から視線が漏れ込んでいる。どんな些細な場所にでも、彼女の目は生えてきている。

街中で交差する人の目はそれに乗っ取られ、私を監視するインターフェイスだ。

クラスメイトの口の中に、瘡を成しその表面を割って目玉が私を見る。

ポストの投函口の隙間から、光る目だけが覗いている。携帯電話Naviは、常に監視されている、カメラはガムテープで塞いでいるし、手元に無い間は電源を切っている。

家にあるNaviもそうだ。NACを取り外しても覚えの無いサイトに接続されるし、私の個人情報はきっとだだ漏れになっている。

今の私には、すっかり無駄

枝と枝との接続のない輪郭に区切られたその閉路の中に、椅子と机の非接触な線に区切られた閉路の中に、忘れ去られた星座を結ぶ閉路の中に、その目は重油に塗れて浮き沈みする酸漿みたいに裂けた虹彩を向ける。

私はきっとデバイスを介さずに強制接続させられているのだ。ファイアウォールもないむき身の魂が情報世界ワイヤードに漏出している。それは、あの、目の、神様のそれの監視によって。

でも、メリーは違うの。メリーは私に祝福をくれた。だからもう無駄。貴方がたが監視したい私の一切は、もう、メリーにあげてしまったの

低周音の響く不快な外と外的生命をあざ笑うように、私は自室に滑り込んだ。カーテンは閉めっぱなし、隙間から漏れいってくる光を煩わしく思いながら、私はカーテンの端を、念を入れるように引き直す。

ただいま

Naviに声をかけると、音声認識が走ってスタンバイから復帰する。UIはかなり旧式のままだ、でも私はこれでいい。

全ての明かりを消して、部屋の中を真っ暗の、宇宙みたいにすると、至る所に星の顔をした彼女が浮かび上がってくる。その優しい闇に抱かれながら、私はあの恐怖を克服した満足感に浸った。

もう怖くない。彼女がいてくれるから。

ネットワーク接続を遮断したNaviのブラウザは、404。表示の無い画面、でも私は、確かにそれが映るのを見ている。

ほら、エラー画面のアイコンが蠢いて、後ろから目玉が現れる。私を見ているつもりだろう、でも。

エラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするわエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックるするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクいリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコてンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーみアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするをエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックたするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクなリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコあンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーもアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするしエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックたするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクわリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするエラーアイコンをクリックするクリックするクリッククリックするクリッククリックするクリッククリックするクリッククリックするクリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックす?クリッククリッククリックするクリッククリックークリックするクリッククリッククリックするクリックリクリッククリックするクリッククリッククリックするメクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリックえクリッククリックするクリッククリッククリックするねクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックするクリッククリッククリックする

ねえ、メリー

何も起こらない。

あはは

何も映っていないNaviの画面、備え付けのインカメラはモバイルNaviと同じようにシールで封をしてある。私はそれを、そっと、剥がした。

大切なモノみたいに、プレゼントの封を開くみたいに、宝石箱の鍵を開ける時みたいに。

真っ暗な部屋の中でNaviディスプレイの冷たい光に照らし出された私の裸体、青い光をくりぬいたように壁に投影される私の輪郭。

インカメラに向けて体を晒すと、その小さな光沢面に映った自分の矮小な姿が、私自身にも光って見えた。

見られている。

熱く、なる。

メリー

脚を開いて、

メリー

彼女の名前を呼びながら。

メリー

彼女に、見られながら。

彼女の目は、どこにでもある。いつでも私を見ている。私を監視している。遠く深淵に繋がる青い目は、私の全てを見透かして、今もカーテンの外に広がる夜空の向こうに、巨大な目玉を吊して私を待っている。

堪らなく恐ろしくて、

堪らなく愛おしかった。

§

「ねえメリー、今日はどんな『境界』を観に行くの?どこにあるの?二人で夜を抜け出して、ふふ、とっても素敵」

え?今日の寄り道のこと?

彼女の目はきっとこの世の裂け目、ここではないどこかとの境界線、もしかすると現実世界リアルワールド情報世界ワイヤードの相転移平面勾配を見出しているのかも知れない。なんて素敵なんだろう。

その澄んだ青い目で、いつも私を見ているのね。私にはどんな割れ目があると思う?

ふふっ、毎日見てるか!

教会?なんて、観に行ったっけ?

境界。結界って言った方がよかった?メリーのその力、最近どんどん強力になってるじゃない。私の時計なんか、そのおまけっていうか、ね?

能力、って、何?

だからあ、その目だよお。とぼけないでって

今日はエイプリル・フール、なんてことはない。メリーったらまたいつもみたいに私を煙に巻いて、しばらくしてから、ばーか、って笑うに違いない。その笑い顔も、好きだけど。

蓮子、何か変よ、何言ってるの?目が青いのは、ほら、向こうの血が入ってるからってだけよ

またまたー。その手は喰わないぞー

すっとぼけてみせるメリーに、私は騙されまいとすかさずツッコミを入れる。

メリーはこの世界ありとあらゆる境目を見出す不思議な目をもってる、でしょ?この間の結界破りは凄かったよね、向こう側の色んなモノが見えて、すっごかったよ。今日は、どうする?

今日は宿題もないし、夜はゆっくり出来る。遠出だって出来るね。電チャリの充電もバッチリだよ。いつものノリで、メリーに肩からぽふん、と当たってみるけど、彼女の反応は何だか固い。どうしたの?

ねえ蓮子。私にそんな変な能力?なんてないわ。変なこと言わないでよ、なんだか怖くなっちゃう。どうしたの?今日は四月一日じゃないわよ

メリー、だって、メリー

メリー、メリーこそ何変なこと言ってるの?だってメリーは、私の

初めて私に亀裂を見せてくれたあの日、メリーは私に言ったよね、大丈夫って。何も怖くないって、私を受け止めてくれたじゃない。メリーのその目、綺麗な青、深くて私の何もかもを監視する、目。私を見てくれてる、私を認識してくれてる、目。メリーは

蓮子、まって、何を言ってるの?あのとき、蓮子がいきなり吐いて、何かに慌てて怖がってるみたいだったから、落ち着かせようとしたけれど

メリーにはその目がある。力がある。セカイの境界を見抜いて破る力が。私と私以外を区切る輪郭を描いて、私の内側を外に漏らさないように、私を存在させる、私の神様

蓮子、落ち着いて。私にそんな変な力は無いわ。私はただの普通の一般人よ。超能力?みたいなものは何にもない。霊感もないし、ただの、何の取り柄もない学生よ

ねえメリー、そんなこと言わないで。メリーは私の

メリーが、変な目で私を見ている。いつものブルーサファイアじゃない、まるで濁った海みたいな、どんよりした目で、眉をしかめて……それ、もしかして汚いモノを見るみたいな目をしている?

ねえ、ねえ、ねえっ、メリー、私はあなたを神だと信じてるの。神は私に信仰されることで神でいられる。でも、私は、神を信じていないと、もう生きていけないの。メリー、ねえメリー、メリー、メリー、私の神様、信じさせて、あなたを

メリーは、私から一歩、後ずさった。え?どうして?なんでそんな風に。

な、なに、かみさまって

メリーは何か固まってしまっている。なんでそんな態度なの?いつも私を見てるの、メリーじゃん。私のぜんぶを知っている、私のなにもかもを監視してる、メリー。

だってメリーは見てるじゃない、私のぜんぶ。いつでも、どこにいても、私のこと監視してる

……は?

ケータイも、家のNaviも全部監視して、私のぜぇえんぶを見てるじゃない。私、それでもいいよ。メリーになら全部見せる。二十四時間ずっとメリーに監視されてても大丈夫だよ、メリーなら

蓮子ちょっと、監視って何?人をストーカーみたいに言わないで

だってメリーは、私があの裏山で野良猫を○してたことも見てたんでしょ?私が毎日夜、してるところも、見てるんでしょ!?いつもメリーのことを考えながら、私、してるよ。見てるでしょ?いつも見てるくせに、何言ってるのなんて、ひどいよ。ずっと物陰から私のこと見てるでしょ?知ってるでしょ!?

心拍数が跳ね上がる。不安、焦燥、それにこれは恐怖、自分の根底が揺るぐみたいな、原初の恐れ。これを私に突き付けることが出来るのだって、ほら、メリーだけなのに。

呼吸が切れ切れになって、目眩が襲ってくる。酸素はもう入らないって言うのに体が勝手に取り込んで、吐き出すよりも沢山吸い込んでしまう。目眩。目眩。ぐるぐる。メリー。メリー。ぐるぐる。

頭が痛い、吐き気がする、メリー、助けてよ、そんな酷いこと言わないで。苦しい、息が苦しい、胸が裂ける。頭が割れそう。胃が捩れて、体中の血が凍り付いてしまう。

私、メリーに全部託したんだよ?だって、私のことずっとずっと見ていて、監視していて、私を客体化しているのは、メリーなんでしょ?私を外側から作り上げて、夜中に止められない汚らしい私も、猫を○しちゃう弱い私も、星の声に怯えるちっぽけな私も、学校で小さくなってるしかない無意味な私が、それでも消えてしまわないの、メリーがしてくれてるんでしょ?私の存在を認めてくれているのは、私を護ってくれているのは、メリーなんでしょ……?

メリーにもらえないなんて、私には耐えられないよ。私の神様でいてくれないなんて、私には耐えられないよ。私の輪郭を切り取っていてくれないと、私は自分を保てないの。溶けて、世界中に散って薄くなって、消えてしまう。私はメリーみたいに、遍在にはなれないの。ただ、消えてしまうの。

めりー……

ねえ、私メリーを神様って信じてる、メリーの存在の踏み台になってあげるよ。だから、私の神様でいて。私を見て。私の姿を、見ていて。ずっと、みていて。メリー、神様、私に、信じさせて

私は、がんがんと痛みを響かせる頭を抱えて、酸素需給の狂った呼吸に翻弄されて、逆流しようとする胃の中のものを飲み込み直して、収縮して暗く狭まる視界に頼り、不整脈を刻む血を掻き出したい衝動に駆られながら、メリーに歩み寄って、その肩に縋ろうとする。腕を伸ばしてそれに触れようとしたとき、彼女の腕は、私の手を、振り払った。大きく後ずさって、私から距離を取る。

気持ち悪い。神様とか許すとか、存在を認めるとか、そんなの自分一人でやってて。人をストーカー呼ばわりして、神様?頭おかしいんじゃないの!?

§

ヴヴぅ……ヴ……

学校の屋上への施錠されているが、それが簡単に開けられる様な状態だと言うことを、教員達は認識していない。お陰でこんなにも綺麗な禍々しい星空の下に、立つことが出来ている。私は、靴を脱いでひんやりとした防水処理の屋上床面をひたひた歩いて行く。こんなにも足の裏の感触は生きているのに、頬を撫でる風の生ぬるさも、星々のグロテスクな拍動も、耳鳴りのような煩わしい声も、全部が私の感覚だと認識できているのに、私が私だと思うその自己感覚だけは、どうしても透明だった。色が付かない、それを紫色でくっきりと切り取ってくれていたメリーは、私を突き放した。

メリーは、私を置いて行ってしまった。一人で境界を越えて、向こう側に渡って、私をここに置き去りにした。空の上から不気味に私を見下ろすあの目はなくなっていて、蠢き回る闇の底に覗く目も閉じてしまって、それはもう、彼女が私を、見てくれないという紛れもない証拠だった。

りー

頭の中にどろどろした水が溜まっているような気がする。その粘性の強い脳廃物を伝って、は体中に伝播しているようだった。これは、通信だ。プロトコルは、まだ手元にある。

ヴ……ヴ……ん

宙が、星が、時間が語りかけてくる。ありとあらゆる隙間に生じた、赤紫と濃紺の染みを滲ませた闇が、今は目玉を閉じたまま、私に言葉を投げてくる。地面を這い回る低周波は星の声、彼女の、神様メリーの声だ。

声を聞いたとき、ふう、と何かがスイッチしたように感じた。何もかもが、終わってしまったような喪失感がある。自分自身が無重力の闇に放り出されたような、息が出来るだけの無に投げ出されたみたいな。だと言うのに、なんだか妙に体が軽くなったのだ。

ヴ……

確信があった。それに、小さな解放感。至った、という感覚、長い長い長いトンネルのずうっと先に小さな光が見えて、遙か彼方遠いけれどきっとそこに辿り着けるのだという、安堵。救い。神様メリー

屋上を歩んで、私を阻む柵を乗り越える。今の私なら、出来る気がした。

ヴ……ヴヴ……

自分で自分の姿を保てないなら、一人で生きる勇気もないのなら、こっちへいらっしゃい?でも、あなたにはどうせ、その度胸もないのでしょう?

そんなことないよぴー、がー、がー私だって、いつか、そっちに行くぴー、が、が、がぴー、ぴーメリーみたいに強い力もいつか持ってぴーーーーーがががが、ぴー堂々と、そっちに行くからががつ、ぴーーーーーーがが待っていてぴー

だったらはやく、蓮子、『こっち』へ来て頂戴

わかったぴー、がー

たんっ

§

今のは、私が中学生の時のLog。楽しんでもらえた?でも今は、おかげさまで大学生よ。だからこれは、コスプレ、残念でした。

……ええ、楽しめたわ

私の耳と頭が確かなら、今の話は蓮子の自殺で話が締め括られているように聞こえた。そして、目の前にいるのは「RENKO」を名乗っている。

また、この手の輩か

自分の自殺の話をするなんて怪談か何かのつもりだろうか、最後の自殺のくだりは彼女の脚色と言うことになる。この少女の「RENKO」というハンドル自体が虚構だろう、いや、ハンドルネームなどな乗り放題なのだ、虚構と言う程虚構ということはあるまい。だが、そこに明確なオマージュがあり、そして目の前の少女のそれは、お粗末な「ごっこ」に過ぎないと言うことだ、今まで会ってきた何人もの「蓮子」と同じように。

パパは私にNaviのことをよく教えてくれたし、芸は身を助けるとはよく言ったもんだよ。

彼女は再びタバコ(のおもちゃ)を吹かす。甘い空気が漂って、今まで聞き続けてきた話の信憑性が急にこの煙のように薄らいだことに急に落胆してしまった。芸が助けた、身、とはそんな卑俗なものなのか。

私も、彼女に煽られるようにしてタバコの煙を吐き出した。溜息の代わりだ。

世界には「蓮子」を名乗る情報世界ワイヤード上の贋人物が無数に存在している。元は一人だけだった情報世界ワイヤード上のカリスマ的人物だが、ミーム化して一人歩きし、気軽に名乗られる軽薄な名前になっている。だが、どこかに本物がいるのだと、私は信じていた。だからこそ、こうしてハンドルネーム「RENKO」を名乗る人物を虱潰しに探しては、リアルで面会して話を聞いて回っている。いずれのRENKOも蓮子ではなかった、この目で見て話を聞き、RENKOが蓮子である可能性を私はそうして殺して回っている。何も刃物で一刺しにしたり、銃で撃ったり、毒殺したり首を絞めたり階段から突き落としたり、する必要は無い。目で見て話すだけで、そのRENKOは勝手に死に絶える、蓮子の可能性を失って。今日はありがとうと別れた後、彼女等は、私の世界では蓮子としての死を迎えて、名も知らぬただの少女に変貌するのだ。

本当にいるのかも分からない、いたとしてもまだ生きているのかも分からない、RENKOという情報束の中に、蓮子が混じっているのかなど。それでも、それでもだ。

私は今までに何十人もの「蓮子モドキ」と会ってきた。今日もそれにプラス1されるだけなのらしい。今目の前で話をくれたRENKOも話の整合性が合っていないし、何より「星の声が聞こえて猫を殺しちゃうような気違いで、中学で自殺した」だなんて、余りにもお粗末だ。彼女の話は、自分は蓮子ではないと自ら言っているようなモノだった。

だが、RENKOを名乗る人間に顕著な特徴は、正気を疑うほどの自分の客観視であることも承知している。まるで自分のことを映画の登場人物のように描写して、恰も他人事のように滔々と話すのだ。そのお遊び要素として、自分を過去に殺してみるだとか、未来に誕生させるという統合失調じみた発言をするのも、その一環だ。その理由を、私はよく知っているつもりだ、私とて彼女と立場は異としながらも同じような場所に棲まう者なのだから。

宇佐見蓮子という人間は、その名が情報世界ワイヤードミームと化す程の巨大な存在だが、同時に、元々はただの一人の人間であることに変わりは無い。だから私は、宇佐見蓮子という人物がそんなファンタジーで奇抜な人物だったとは、考えていなかった。情報世界ワイヤードミームと化す中で、巨大に膨れ上がった「蓮子」像、その鎧と鱗と皮を剥いでいって、残るそのただの素朴な、だがどこかでこの情報世界ワイヤードの闇に魅入られそれに呼応出来る力を持ってしまった、一人の小さな少女の姿を、見たいと願っていた。それは、恋に近いものかも知れない、呪いかも知れないし、恨みや殺意と区別が付かない執着かも知れない。

「あなたに会えて良かった。こうして自分の足で、私は今までに何人もの幻想蓮子を殺してきたわ。これでまた無価値な『蓮子』が、私の中で一人減った。あと何人殺せばいいのか、誰か教えて欲しいところだけれど」

私がそう言うと彼女は、私がRENKOの贋物製を悟ったことを、察したらしい。

今まで見てきたRENKOにも色々あった、慌てて繕い自分を本物だと主張し始める者、猛々しく他にもたくさんいる騙って何が悪いと開き直る者、突然逃げ出す者もいた。彼女は、どうするだろうか?

世界には蓮子は掃いて捨てるほどいる。現実世界リアルワールドで一人死ねば情報世界ワイヤードで三人生まれる、RENKOとはそういうもの。

噴かすタバコを、一入強く深く吸い、大きく吐いてその煙に混ぜるように言葉を続ける、RENKO。

今まで何人のRENKOを殺したのか、知ったことでは無いけど、それはあんたの作り出した蓮子だ、自信を持ちなよ

は?自信?私が作り出した?

作り出したのは、私が今までに対面してきた数え切れない程の少女達自身だ。

常軌を逸する迄に承認欲求が強く現実世界リアルワールドで満たされないその渇きを潤すために。逃げ出したいひりついた居場所を脱出するために。理想の自分へ短絡するために。

いずれにしても、宇佐見蓮子という情報世界ワイヤードミームの持つ記号性に、自分で支えきれない自分の価値を依存して、彼女達は女神を作り上げ、自らそれを名乗った。それぞれの蓮子像を作り上げたのは、矮小な少女達自身だ。そしてそれは、少しリアルからアクセスするだけで腐り落ちる脆弱な、生肉の鎧に過ぎない。

私は、何を隠そうその少女達が腐り落ちて死にゆく様が愉快で堪らないのだ。お前などが、まるで情報世界ワイヤードの神にでもなったつもりか、メスガキメンヘラが。

蓮子という主体が存在するなんて、それこそ幻想だよ。でも、それだけの数の蓮子を喰ってきたあんたは、もう正真正銘、蓮子の別名エイリアスさ。

どういうこと?

私が蓮子だ?トチ狂った発言も程々にして欲しい。

東方算法騎士団ナイツを、聞いたことあるだろう?

あなた以外に会ったRENKOの何人かは、情報世界ワイヤードの神の守護者、だと。だけど入団員名簿を晒されて、抹消された。リアル側を物理的に拘束されては、さしものナイツも無力、所詮はね

東方算法騎士団ナイツは現在、沈黙している。何者かに現実世界リアルワールドでの氏名を情報世界ワイヤードに晒されてしまい、その非合法性を問われてほとんどの入団者が行動不能になっているからだ。

東方算法騎士団ナイツの名前自体は、情報世界ワイヤードでは有名だ、それこそ宇佐見蓮子やマエリベリー・ハーンに並ぶようなミームとして機能していた、真名マナを奪われるまでは。情報世界ワイヤードで幾ら強大な存在になったとしても情報世界ワイヤードなど所詮は幻想、現実に勝るリアルなど存在しないのだ。

そう、情報世界ワイヤードなんて、ただの幻想、でも不足なんだ、まだ。蓮子の求める本当の幻想には、遠く及ばない。だから、あんたに殺された。あんたは私に会いにを殺しに来た。あんたに剥かれて、私は見事に殺された。蓮子は実体じゃ無い、既定も、輪郭も、実装も無い。ただの遍在する概念で、希薄で、不定形。だが確かに認識はされている、まるで視界の隅に映る何者かみたいにね。でも、殺された私にはすっかりよく見えるよ、目の前に、蓮子がね

鍔広の黒い帽子の向こうから、鋭い目が覗いている。そうした形の目が、私の一番嫌いなモノだと知っているかのように。

酒を勧めてくる。マティーニを頼むと、彼女はさっきのタバコの玩具子供騙しとは裏腹にテキーラのショットを頼んでいた。

挑発なのか、とも思ったが、こんな安いモノに乗っかって目的を見失っても仕方が無い。なるだけ涼しい顔をしてグラスに口を付けて見せると、彼女は作法通りにそれを一気に干してから天国への階段を頼んでいる。アブサンベースのそれは相当に人を選ぶはずだが、その苦みを随分楽しんでいるようだ。

その余地を少しばかり与えてから、休憩は終わり、会話を続行した。

その目を、見ないようにしながら。

宇佐見蓮子って、なの?

そりゃあ、あんたの方がよく知ってるじゃないか

そうかもね。今まで色んなRENKO幻想を、現実に霧散させてきたから。その過程で、色んなRENKOを見たから。

私が言うと、目の前のRENKOは、何か納得するように頷いている。何を悟ったつもりだろうか、化けの皮を剥がされて、開き直った?

「宇佐見蓮子はモザイクとレイヤー、それにアンテナだ。あんたが私に蓮子を解剖させ、RENKOはあんたに蓮子の話をすることで『蓮子』を一意に定義しなければならなくなった、それは分散と多義性、重複と不定を目指す蓮子とは背反。RENKOが蓮子ではなくなることであり、蓮子から零落した私は蓮子ではない何者でもない何か成り果てた、死んだよ。」

現実以上のリアルは無い、それが私の宗教。いかにも、私はこうして情報世界ワイヤードに遍在するRENKO、蓮子の別名エイリアスを殺して回っている。

結構。宗教の無い人間は、現実世界リアルにも情報世界ワイヤードにも取り残されて惨めに死ぬだけだ。ああ、そうか、あんたは東方算法騎士団ナイツの残党か

ご想像にお任せするわ。

何にせよ、助かったよ。これで私は無罪放免、解放。そしてあんたに、ご愁傷様、だ。

無罪なものか、ただのミーム騙りの分際で情報世界ワイヤードの神を穢した罪を、雪げるものか。

引っかかったのは彼女の言い草だ。まるでさっさと辞めたかったと言いたげだ。助かった、だなどと。

私がRENKOだと言ったわね

別名エイリアスだと、言ったんだ。でももう私よりもよっぽど蓮子に近いだろう、あんたは。東方算法騎士団ナイツであるか否かに拘わらず、あんたは今まで喰ってきたRENKOの数に因って蓮子に近付いてる、私が見た中じゃ一番だね、自信を持っていい

自信?ふざけないで。私はそんな

「亡霊、だよ、『宇佐見蓮子』っていうのは」

私の言葉を遮って、少しばかり強い口調で偽蓮子は、何かおかしなこと言う。

亡霊?

本体なんてとっくに死んでる、尤も体なんて概念は、宇佐見蓮子にとって価値を失ったモノだったろうがね。蓮子ってのは、亡霊さ、だから私みたいに取り憑かれてRENKOを名乗る奴はいっくらでもいる、そうさ勝手に増えていく。

酔っているのか?陶酔するような口調は、自信に満ちていて、だがどうにも要領を得ない。

ミームとはそういうモノだわ、ただの情報世界ワイヤードミームだっていうの?

所謂ミームと違うのは、蓮子は目的を持って向かっていることだ

目的?ただの情報世界ワイヤード上の不定形概念が?プログラムされていると言うこと?

プログラムじゃない、だが、意志と言うにも少々語弊がある。その概念ひとかたまりが持つ集団的指向性、それが、宇佐見蓮子だ。名称概念同様に電子化され、一意の主体性と輪郭を持たないまま情報世界ワイヤードを漂っている。願いとか、恨みとか、そういうモノとほぼ同じ機能を持ってね。魂、と言ってもいいかもしれない

もう蓮子の破片であることを放棄した彼女は、知っていることを何でもぺらぺらと話す。今まで会ってきた偽蓮子達も、振り返ってみれば確かにそうだった。彼女等は皆、自分が蓮子であることに誇りを持ちつつも私にそれを明かして蓮子を失うことを知り、そうでありながら、まるでそうして自分の人生キャラ設定をひけらかすことが本当の望みだったかのように、滔々と自分カタリを始めた。自己の強烈な客観視と意図的な時系列と因果の混濁した物言いは、それが表出したものだった。

魂なんて、現実世界リアルワールドでも情報世界ワイヤードでもない、ただの非科学的な概念だわ

その目的を思念と仮定するなら、宇佐見蓮子は魂や亡霊と言っていい、というだけだ。だが、笑い飛ばせるのか、今のあんたに?

……それが、RENKOを名乗る者達あなたがたの宗教?笑わせるわ

笑うのは結構だが、あんたはもう、手遅れだよ。それだけたくさんのRENKOを喰ってきたんだ

「『喰った』?」

また、不穏当な言葉が出てきた。メタファばかりが多い物言いに、苛立ちが隠せなくなってくる。彼女はそれを見逃さないように、その帽子の下から気味の悪い目を指してくる。目を、逸らしてしまった。

「言っただろう、『深淵を覗く時、深淵もまた此方を覗いているのだ』って」

深淵?宇佐見蓮子の目的って、何

今のあんたがもう私に聞くことなんて無いだろう、

蓮子には一意性も主体性も固有性も実体も無い、だが確かに存在し認識できて客体であり他己されて輪郭を持つ。こんな歪な存在がだ。存在する、と言うことは、何なのだ?、とは一体、どういう『現象』だというのだ?

有機的情報塊ニューロマンシー

「その呼び名はアナクロだな、宇佐見蓮子は『彼女』を待つためにもっと別の分散システムを作り上げた。肉体を捨てながらなお、真に幻想へ至ることが出来ずに顕世で苦し紛れに足掻く姿、待ち構える網と遍在、永続で有機的、それがこのネットワークな亡霊性ファントマだ。それを『幻想』と呼んでいた」

幻想どころか夢想的すぎるわ、そんなの、東方算法騎士団我々でも見出すことが出来なかった……それは

「そう、『それ』だ!私達は『それ』だったんだよ、気付くのが遅れたな、新たなRENKO!はっ、はははは、ハハハhaはハハhaハhahahah!!

偽蓮子は笑い始めた。

黙れ

まるで壊れたAIみたいに、

だまれ

偽蓮子は、腹を抱えて笑い転げる。

だまれ!!

一体何に、腹を立てている、私は?こんな真実味の無い話のどこに、焦りや、腹立たしさを感じる必然性がある?こんなもの、逆に私が笑い飛ばしてしまえばいいことだというのに。

ああ、だよ。そのシステムを何と言うか知ってるか?

§

一人のRENKO幻想を殺し、彼女と別れてサイベリアの末席に一人残された私は、ドライマティーニに口を付け、虚しい勝利の隅に一抹の不安を覚えていた。情報世界ワイヤードに蔓延り猛威を振るい、秩序を破壊して肥大化し続ける蓮子、あるいは秘封倶楽部というミームの拡大を防ぐために、ひいてはそれは、情報世界ワイヤードの神を守るために、私はRENKOを殺して来たというのに。

こうなれば、マエリベリーという方のミームも、殺して回らなければいけないか。それに、ナイツのメンバーの再構築も進めないと。ファントマのクローンは、物理媒体に書き出してあっただろうか

もし、先のRENKOが言った言葉が本当にその通りであるのなら、私がRENKOを殺し続けMERRYを殺し続けて行けば、その結果、私は蓮子であると同時にマエリベリーでもあるということになる。私自身が秘封倶楽部となる?そんな荒唐無稽がある筈が無い、情報世界ワイヤードミームがそうした形で二者の境界を失い融合するなど。

それこそ、ゲームの中の話ファントマだ、紛れもない。

何を恐れている

私は東方算法騎士団ナイツ情報世界ワイヤードの神を守護する者。情報世界ワイヤードを蚕食鯨呑する有害なミームを潰して回るのも、勤めの一つだ。それに疑いは無い、これからもRENKOとの接触を図り、MERRYとも同様に面会を求め、そうすることで秘封倶楽部という魑魅を排除して情報世界ワイヤードの神を守護すると同時に、拡大に勤める。

だが、そうと分かっていても、たった今蓮子を剥奪され無名の信奉者に成り下がったRENKOに突き付けられた言葉が、まるで冷ややかなささくれの様に引っかかるのだ。その姿はみるみる膨らんで行く、信じられない速度で。

大丈夫、自宅に帰って記録を探すのよ。卒業文集でも、昔の制服でも、個人情報の記載があるなら何でもいい

自分に言い聞かせるように呟いて、私はグラスに口を付ける。その手が、震えているのが、自分でも分かる。焦り?不安?恐怖?それらどれでも無い。未知、不可知、だが直観な何者かが、私の背後に立っている。

グラスを置いて、深く息をく。目を閉じて、何度気を落ち着かせて内省してみても、それは元の姿が読み取れないSuperscribed。何度思い出しても、浮かんでくるそれを否定しても、それでは無かったはずだと分かっているのに、記憶として汲み取れるのはofdata">元の情報に上書きされた、全く別の情報だSuperscriptionofdata。元の情報が、読み取れない。記憶を何度辿ってみても、その記憶が本物のように居座っている!

背後に感じる巨大な不定形の化け物の存在に、私は身震いを止められない。

なぜ突然こうなった、こんなことになった?私に何があった。いや、世界に何があった?

私は幼い頃異常者と後ろ指さされながら、更正したフリをして大切な友人に会ったのだ、それは私の、努力の結果だ。そしてでも、彼女に裏切られた、私は置いて行かれたのだ。世界のどこにもあなたはいない。だのにあなたの目からは逃れることは出来ない、どこにいても私を見ているあなたは、アルパにしてオメガ。情報世界ワイヤードの神?現実世界リアルワールドの神?それとももっと広く遍在する、真なる神?いずれにしても、あなたの目は至る所に存在する隙間から私を覗き見ている。いつでも、どこでも!それがあなただったんじゃないか。あなたは、それだ!

これは、私の記憶なのか?

だってこれは、さっき彼女から聞いた荒唐無稽な話だ、

でも、その前に会って殺した別のRENKOの私は顔をしていて、その前に殺したRENKOの私は服を着ていて、その前に殺したRENKOの私は声をしていて、その前に殺したRENKOの私は声をしていて、その前に殺したRENKOの私は学校に通っていて、その前に殺したRENKOの私はお父さんの娘で、その前に殺したRENKOの私には姉さんがいて、その前に殺したRENKOの私は記憶を有している。たったさっき会って殺したRENKOの、恋人を私は知っている。知らないはずなのに、その名前を私は知らないはずなのに。

その名前がマエリベリー・ハーンだと、知っている。知っているのは、ミームとして知っているだけだ、さっき殺したRENKOのつがいの名前だなんて、知らない、知らないはずなのに、それがマエリベリー・ハーンだと知っていて、私は上書きされた嘘の記憶の中の幻想のメリーを、愛おしいとさえ思っている。

なんなの、なんなの、なんなのこれは、なんなの、なんなの、だれなの!?

蓮子、へ来て頂戴

お前は、マエリベリー・ハーンメリー……?

背後に立つ不定形の、見れば見えず、認識しようとしても認識できず、でも確かにそこに存在する不定の化け物が私を呼んでいる。恐怖という命名を受ける更にその前の未分化な逃避感情が、しかし大きすぎて身動きが、振り返ることさえ出来ない。

違う、のか、ノイズにより読み取れません

単なるミームでは無かった?宇佐見蓮子は現実世界リアルワールドに取り残され、未だに越境を成し遂げられず悶え続ける情報の化生となった、怨嗟のようなものなのか?情報世界ワイヤードの巨大ミームに変化した蓮子でさえ、まだ足りないというその先は、何なのだ。それを超えるということは。

蓮子、こっちへ来て頂戴ぴー、がー、ぴー、ぴ、ぴ

何なのだ、この「声」は。こっちとはどっちだ、ああ、ああ喧しい、喧しいこの低音で響くような声は、本当に脳みその奥を引っ掻かれるようで不快だ!

そうだ、この奇妙な声を遮るのには、そうだ、帽子が、鍔が広くて黒い円形の帽子がきっと、丁度いいに違いない。帽子をかって帰らないと、こんな狂った星の声を遮ってくれる帽子が、売っていればいいけれど。私は周囲から怪訝な表情を向けられながら、席を立った。

私は、蓮子じゃ、ないっ!

蓮子、こっちへ来て頂戴ぴー、がー、ぴー、ぴ、ぴ

それまでは、この声を無視し続けるしか無い。返事をしたら、何もかもが終わりなきがしていた。その声が、マエリベリーの声だと、察することは出来ても理解することは必死に避けた。理性にかければ理解してしまいそうになる、意識と理性の天秤にかけるのを必死に回避しながら、私は店を出る。

背後にその声を背負いながら、私はさっき私に蓮子の断片を押しつけていった少女の最後の言葉を思い出そうとする。

彼女は何て言っただろうか、そこに、何かのヒントが、この空恐ろしい、ofdata">自分の存在そのものが上書きSuperscriptionofdataされてしまうことを防ぐための何かヒントが、あるように思えて、いや、それは藁にでも縋る気分だった。

彼女は何と言った?何と言うつもりだ?

言ったでしょう、『深淵を覗く時、深淵もまた此方を覗いているのだ』って。

違う、その次。

そのシステムを何て言うか、知ってるか?

そうだ、その次。

れいん、っていうのさ

れいぴー、がー

レイン。

口を突いた言葉が、そのまま返ってきて心臓に突き刺さったような錯覚を見る。そして、突然さっきまで襲われていた寒気のような恐怖感と不安が、すうと晴れるのを感じた。

そう、か、そうか!そうなのか!

『それ』の名前を知ってしまった私は、サイベリアを出る足を急ぎ、いつの間にか走り出していた。そして空の天井を見上げたのだ。

それらの天井は空を抜けて宙を覗いている。

神が、現れる。私は『それ』を認識したから。

周囲の人間は私が導き出した現実世界リアルワールド情報世界ワイヤードのデバイスレスなブリッに気付いていない。夜に相当する時刻だと言うのにそれは明るかった、明るかったが青空や白い雲が見える空では無かった。

赤紫と濃紺それに漆黒のインクをべたりと垂らしたような歪な色彩勾配に塗り潰され、不気味に輝く星々が貼り付けられた、ああこれは元々私の記憶だっただろうか、それとも別の誰かのそれだろうか、否、もはやそんなことに意味は無い、分散し遍在した世界では、低周波ノイズの鳴り続ける不穏で何も映さなかった筈の宙には顕幻の穴が開いて、その向こうに、今ははっきりと、『彼女』の姿を見出していた。

ぴー、

車道のド真ん中でを見上げていた私の肉体は、けたたましいクラクションとブレーキ音と共に、大して高くもない宙を舞った。

§

という、お話なの

目の前にいる女性は、私の話を怪訝そうにしながら聞いている。飲み物がよく減っているのを見ると、相当退屈したらしい。その退屈さ、愉快だわ。

これが私に残された予言Log。お気に召したかしら?

全く。蓮子を名乗る女性がいるからと来てみたら、こんなものか。どう?私にそのログとやらを吐き出して、情報世界ワイヤードのお姫様は、一意性を強要されて死んでしまったんじゃない?

ええ、おかげさまで私は無罪放免、解放よ。そしてあなたにご愁傷様。予言の実行を期待しているわ。

それじゃ、といって私はサイベリアを後にした。それは、明日の出来事だろう。

§

辺りを埋め尽くしていた葉擦れの音が突然消えたのなら、それは∴が傍にいる証だ。まるで無作為に天に伸ばされた木々の腕、その上と下に空間的な断絶なんてあるはずは無い、木の枝をひょいと除ければ区切りのない世界が広がって、ここはただの一つの空間なのだと思い知るのだから。それでも、この葉擦れが幽き響きに薄らいだなら、それは∴が傍にいる証なのだ。枝の下には見えないのに上にだけ∴は現れる、枝と枝との接続のない輪郭に区切られたその閉路の中にも、∴は、いる。

一人過ごす夜の部屋で流れる空気を感じたのなら、それは∴が傍にいる証拠だ。まるで意識無く散らかされた部屋の置物、時計、本棚と椅子、机に食器と∵の体、その融接のない個別の存在の右と左に世界の境目なんてあるはずは無い、ちょっと椅子を除けてみれば、∵が歩いてみてみれば、境界のない世界が広がって、ここはただ一つの世界なのだと思い知るのだから。それでも、時計の長針と短針と文字盤の間の三角形が妙に気になってしまうのなら、それは∴が傍にいる証なのだ。電気コードの右には見えないのに、左にだけ∴は現れる、椅子と机の非接触な線に区切られた閉路の中にも、∴は、いる。

漆黒に沈む筈の夜空にさんざめいて揺れる星々が、急に静かに∵を見つめてきたのなら、それは∴が傍にいる証だ。まるで宇宙の神秘は∵達人間のことなど気にも留めていない様に見えるのに、星が∵に語りかけることなんてあるはず無い、数式を解いてその距離を測ればそこには絶望的な空間的距離があり、それがただ一つの時空であることへの失望と落胆を思い知るのだから。それでも、星と星の間を充溢する漆黒の永遠が、不意に身近に感じられたのならば、それは∴が傍にいる証なのだ。月と太陽の間に時間は無いのに、星の間の時間にだけ∴は現れる、忘れ去られた星座を結ぶ閉路の中にも、∴は、いる。

∴はどこにでもいる、∴がどこにでもいると言うことは、∵はどこにでもいると言うことだ。主観と客観の区別こそ主観でしかないのだ、魚眼で世界を見渡して電波で宇宙を感知し、それらを記号で埋め尽くすなら、それこそが∵の客観なんだと思う。だから、∴はどこにでもいる、∴がどこにでもいると言うことは、∵はどこにでもいると言うことだ。その差は、そうだと思うこの意識の中にしかない。

∴はどこにでもいる、∴を置いて境界を超えてしまった∵を待つために、そういうことにした。

>予言を継続する場合は、以降のLOGを追加して下さ← >システムは2018/11/11_0000000に自動的に更新さ← >UPDATE後、新たに確保されたシステム領域[GENSOKYO]←がBootloaderに設置され、利用されます。← >また、以前のシステム領域は全て破棄されます。← >UPDATEはすぐに完了します。← >案内動画を見ながらお茶でも飲んでお待ち下さい。← ... ...... ......... ...... >UPDATEは正常に終了しました。 バイバイ